2017年4月7日金曜日
過去を振り返れば前に進めない、今日の問題は明日考えよう
弁護人らの見通しが非常に甘く、無罪の主張にこだわるあまり、最も悩ましい量刑に関する適切な弁護がなかったと裁判官に指摘されたタリウム事件の無期懲役判決が不服として恐らく同じ弁護人らで控訴されたとの報道がある。控訴した場合にどれほどの確率で量刑が変更されるのか、どのような事情が加わるのか、という問題があるが、控訴されない可能性もあったこと、棄却される可能性もあることを考えると、事実上、三審制を否定するもので、裁判官が指摘された通り、何故、量刑の主張をされなかったのか、という問題が残る。それが仮に責任能力の主張と相容れないからというのであっても、裁判官や裁判員は、無罪と量刑が両立しないことは素人でも明らかなところであろうから、二段階を峻別して検討されているだろう。そうすると、無罪の主張にこだわったというのは被告人がその主張に固執したのでない限り、被告人を危険に晒す可能性があるのではないかと思われる。そして、判決で責任能力は認められたので今度は控訴で量刑を主張する、というのでは、では、先の主張は何だったのか、という一貫性を失わせることになり、控訴した後の主張の信用性を低下させかねず、これが被告人を危険に晒す可能性がある。最初から、まずは無罪の主張をして、恐らく有罪で量刑が決まったら控訴して、その量刑を軽減する主張をする、という方針ならば、最初から裁判官や裁判員を信用していないと思われても仕方がなく、この、自分には全く責任がないけれども判決で責任があるというので反省するから刑罰を軽くして、という態度は、全て被告人が消極的に控訴の量刑として負担するのである。
映GONEWITHTHEWINDで、スカーレットが、過ぎたことを考えても仕方がない、明日考えよう、といったシーンを思い出したが、このようなハングリー精神は、戦時下で生死に彷徨う時代ならまだしも、刑事裁判には置き換えられないだろう。
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