2017年4月4日火曜日
都市と田舎の対立軸から見世物小屋に向かう
自ら長年学校という箱の中で教育を受けて、受験という競争や成績をもって得た経験は、ある利益を得る為には自らをある拘束下に置かなければならないという見えざる自己暗示となって、仮に自身に専門知識や技能がなければ雇用契約という拘束をもって自身の時間を売るという判断に至る。それは海岸で、ヤドカリが次の貝殻を探すのに似ている。この貝殻が海岸ではなく都市にあるというのであれば、ヤドカリに例えられる者にとっては皆都市に向かうという誘引となり、都市に特有の荒波に呑まれることに繋がるし、その貝殻が都市の賃貸不動産というのであれば、貝殻は月収の30パーセントを占めることもあり、ヤドカリに例えられる者は、都市で、賃金労働と賃料支払のサンドイッチにされてストレスを抱えて消耗するかもしれない。それは毎年25000人、20代の死因の最大原因である自死を引き起こす都市の病となる。都心の電車は毎日のように人身事故でダイヤが乱れるように。ではこのような都市生活者のサンドイッチ生活による消耗を煽って田舎生活をするか、というと、例えば小学校受験の教育機会を比較すれば明らかなように、田舎ではこのような機会は圧倒的な遅れを見せていて、子供の教育機会における情報格差は年少児に最大の潜在的格差を齎す可能性がある。即ち、都市生活に伴う消耗は田舎生活で解決するが世代間の格差は解決しない為に説得力に欠ける。このような視点で田舎暮らしが楽であるというのは、仮にそれがブログやユーチューブなどでのアクセス数稼ぎという目的であれば自身を見世物小屋の拘束下に置くことを意味し、その本質的な構図はもはや先の自己暗示と同じであろう。
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