2017年5月30日火曜日
登龍門を目指して逆流を川上に向かって泳ぎ切る
例えば通勤や通学が辛いときに、自分が流されていないか、いつ何処でこうなったのかを考えることが大切と思う。そして流されるときは、大抵より楽に流れに乗る思考で大勢による結果が辛いというのであれば、逆流に向かって登り詰めることが必要かもしれない。大勢の逆を行き、大元を抑えるという思考で振り切らない限り、すぐに元の流れに戻されてしまう。例えば毎月売り上げてもその入金の殆どが賃料や賃金に消えてしまうという場合に何のためにやっているのか分からなくなり辛くなるというならば、それは、賃料や賃金の為にやっているのであって、それが辛いのであれば反対側の賃料や賃金を受け取る側まで逆流を登り詰めなければ状況は変わらない。賃金を受け取っても毎月の家賃や住宅ローンの支払いで消えてしまうというのが辛いならば、やはり、その為にやっていることを認識した上で、反対側の賃料を受け取り、住宅ローンの支払いを受け取る側まで逆流を登り詰めることが必要になる。何事にも登龍門という場面があって、そこを通過しない限り、川幅は狭くなるかもしれないが状況はあまり変わらない。これは例えばポテトチップスを買うのをやめてじゃがいもを割引で購入して自らシーズニングを使って作る、更にじゃがいもを切って植えて自作するという場面でも問われる。このような対応ができないならば何時迄も消費者側として、労働という企業にとっては原材料を提供して、賃金を貰い、その賃金を、じゃがいもという原材料ではなく、付加価値が加算されたポテトチップスの代金として支払って消してしまうという循環から逃れることはできない。賃料の支払いもこれと同じようなことと言える。
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