2018年3月6日火曜日

言論と戦争

戦争をいかに回避するか、又はある部分や地域や期間だけに済ませるかという問題に対するアプローチの仕方として武力によるアプローチや非武力によるアプローチなどがあるが、たとえ非両立に見えるアプローチであっても問題意識は同じであったりし、両立できる場合もある。その意味で、例えば憲法が言語によってそのようなアプローチを記述するとして、その記述の曖昧さが両立を可能にするという現実を維持しているかもしれない。逆に、言論や言論が疲弊して問題を共有できるだけの表現力を社会が失えば、憲法での言語記述を判断するだけの言語能力を失い、先のアプローチを判断できなくなる。キューブリックの映画フルメタルジャケットで、集団がやるべき成果は戦争での勝利であるのに、そこで語られる言語や言論は低俗かつイかれている、という表題を取り上げている。少しの意識変容が思考をフラットにして民主主義に戦争決定をさせ、集団は止める言論を持たず、フラット化された多数者の思考や意思決定が集団化して都市や国家をぶち壊してフラットにする。その過程で低俗な言論が蔓延って意識変容が撹乱される。銃弾は装填されるが言論や言語や思考は空疎になる。それは個から集団を超えて国家に至る。

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