2018年3月13日火曜日

ふりをしてやり過ごす社会

ある成績や学歴や資格や資産を取得しても、それらが実際に十分に使われたかどうかを問うとそうではないはずで、小さなころからそのような結び付きの弱いことを教えられる箱に入ることを半ば強制されるも反論や選択をする機会が与えられなかったら、いずれそれが正しいことと思い込んでしまう。それは自身が必要のない無駄なことをすることを正しいと信じるばかりか、それを他人に意図せず強要してもなんとも思わないことに繋がって社会は壮大な無駄に支配される。すると国民全員が壮大に何かのふりをしているのではないか議員ふり、裁判官のふり、社長のふり、会社勤めのふり、代金780円のふりというような、全部とは言わなくても一部の時間にそのような瞬間があればそれはふりになる。そのような部分は隙を与えて今までの信仰と異なる信仰にすり替える機会を与え、社会が断絶から衰退に向かう。

2018年3月11日日曜日

社会の健全性

10円のじゃがいもを買ってスライスして150円のチップスを売る場合、栄養価と馬力はじゃがいもに変わらないが価格は15倍になる。しかしその工程に時間とエネルギーの投下があり、その投下は栄養価と馬力の向上ではなく外見と食感に投じられている。現金とチップスの交換と消費で起きることは消費者からみて差額140円の喪失で外見と食感は瞬時に消えてしまう。労働力はじゃがいもで企業はチップス生産という構図において労働が自ら生産したチップスを買って食べていては金は貯まらない。個人がある時間を投ずるとしてそれが消費に向くか生産に向けるかという選択がある。さらに生産に向けるとしても、その生産された財が他者からの消費による資産移動や搾取に向く場合にそれを繰り返して蓄積された結果がどうなるのかを考える必要がある。社会の疲弊に繋がるかも知れないし、一般的に社会の構成員全員が四六時中ギャンブルをしている社会は健全ではないと言われるが、ギャンブルの外見はなくとも実態が生産消費活動を通じたギャンブルと同視できる帰結であればその評価は同じようなものになりかねない。

2018年3月6日火曜日

言論と戦争

戦争をいかに回避するか、又はある部分や地域や期間だけに済ませるかという問題に対するアプローチの仕方として武力によるアプローチや非武力によるアプローチなどがあるが、たとえ非両立に見えるアプローチであっても問題意識は同じであったりし、両立できる場合もある。その意味で、例えば憲法が言語によってそのようなアプローチを記述するとして、その記述の曖昧さが両立を可能にするという現実を維持しているかもしれない。逆に、言論や言論が疲弊して問題を共有できるだけの表現力を社会が失えば、憲法での言語記述を判断するだけの言語能力を失い、先のアプローチを判断できなくなる。キューブリックの映画フルメタルジャケットで、集団がやるべき成果は戦争での勝利であるのに、そこで語られる言語や言論は低俗かつイかれている、という表題を取り上げている。少しの意識変容が思考をフラットにして民主主義に戦争決定をさせ、集団は止める言論を持たず、フラット化された多数者の思考や意思決定が集団化して都市や国家をぶち壊してフラットにする。その過程で低俗な言論が蔓延って意識変容が撹乱される。銃弾は装填されるが言論や言語や思考は空疎になる。それは個から集団を超えて国家に至る。

2018年3月5日月曜日

源泉、原料、原点を押さえる

事業を行う場合に原料から製品までの工程に付加価値を付けて販売することが鞘取りとなり、事業主にとっては電気、ガス、水道、原材料、労働力が原料となる。従って、例え仕入れが安くとも、最終製品を仕入れて事業を構築してもその部分に付いて鞘取りを放棄して製造者、供給者に帰属させることになり意味がない。例えばコラボレーションオフィスのコーヒーをネスカフェにしてカプセルを購入したり、貸しオフィスを賃借したりというのは、最終製品には製造者の利幅が乗るため高くなる。これは鞘取りの場面を放棄するに等しい。原料や原点に回帰する思考が必要になるだろう。賃金労働は雇用側から見て原料となるので労働者から見れば安売りになりがちである。最終製品にするには労働に付加価値を付けて価格決定権が提供側に留保されていなければならない。建売住宅を買って後々売る場面での価格決定は不動産業者など買い手次第であれば原料価格に回帰している。建物価格は加えないばかりか解体費用を土地代金から引かれる。これは建物代金に金利を負担して支払ってきた結果というのだから不経済さは明らかとなる。土地の供給側は中古建物ではなく新築建物をローン付きで高く売りたいのであり、旧来の建物は邪魔になる。ラーメンの麺が原料で、スープは飲まない限り包装材に等しい。すると原料価格は実質麺と具材の価格となるが、実際はスープの方が高い経費が掛かる場合も多い。即ち付加価値の殆どは廃棄されている以上それに払われた費用も捨てているに等しい。スープが飲めるラーメン店を選択するか自作するしかない。

2018年3月3日土曜日

有料老人ホーム転落死事件

有料老人ホームの入居者がある期間に複数自殺や事故死することは珍しく、更にベランダや柵を越えて転落することの可能性にも疑問があるというのが他殺を疑わせることになり、その一番近くにいた者や接触があった者から疑いをかけられる。そのようなすぐに疑われるだろう立場の者が、動機に乏しい事件を起こすだろうかという可能性は更に珍しい筈だというのが反論となるだろう。事実は択一非両立ではなく生活が嫌で嘱託されていたという第三の可能性もあり得る。捜査段階の自白が強要や誘導により成されたという反論がなされても、やっていないことを認めるという虚偽にまで至れば、より証言の信用性全体が失われる場合がある。反論を、一度は認めたという性格から再度供述をして、そちらを信用して立証するのは困難であろう。捜査段階よりも法廷での証言が信用度が高いといった一般論があるとしても。短期間で3名が転落事故や自殺に及ぶことがあるのか。その3名の死亡前、死亡迄に被告人が近くにいたのか、死亡された方の衣類などから被告人の衣類の繊維などが付着していないか、ベランダの柵を超える能力があるのか、など本人外の事実が問題となるのであろう。

2018年3月2日金曜日

パソコン亡国論

Windows95が登場する前はパソコンといってもDOSVが限界で専ら文豪などのワープロが主体でオフコンは会計や請求で使われていた。95年以降に事務所全体にパソコンが配置され、文書や図表の作成が仕事の一部を占めるようになり、インターネットの普及で通信に関わる文書作成や送信が仕事の一部になった。その結果、パソコンに向かえば仕事をしていることになるという思い込みに至りやすくなるが、実際の収益はテキストの一部で発生するかもしれないが殆どはテキスト外、パソコン外、事務所外で生み出されている。結局、パソコンに関わる時間が増えるほどホワイトカラーの生産性は低下して、その存在自体が事業全体の生産性を低下させる。テキスト化するほど他人が読む時間を奪って全体効率を下げる。文書量は成果において分母になる。商品やブランド数を減らせばより少ない文字数にでき、より少ない文書量で成果を出す可能性がある。95年以降に社会に出た世代の勘違いが甚だしい。